「忘れもしないです。大学の講義中に先生に呼ばれて。従姉妹が迎えに来てくれていたんですね「母が倒れた」と。当時母は、持病のリウマチが悪化していて大分の病院に入院していたのですが、その病院で倒れたのです。私はすぐに大分へ。母に付き添って1週間、容態は良くはありませんでしたが、まさか亡くなるとは考えもしませんでした。いつか良くなる、母が死ぬわけない、って信じきっていたんです。母が亡くなった時は、父が亡くなった時以上にショックで、取り乱していましたね」。
お母様の死で呆然とする内田さんには、大きな決断が迫られていました。
「社長である母が亡くなり、この会社をどうするのか、という危急の問題がありました。母の入院中、古参の社員の方が切り盛りしてくれていたのですが、葬儀の当日「どうする?」と訊ねられて。私は即座に「やります」と(苦笑)。なぜそういう答えを出したのか、正直、覚えていないんですけど、とにかく「やります」と答えていました」。
弱冠20歳の女の子が、父と母の跡を継ぐと決断したのは、理屈抜きの責任感がもたらしたものだったのかもしれません。
「とにかく大学は卒業したかったんです。それで当時の役員の方にお願いして、大学卒業まで待ってもらいました。ただ、卒業してすぐに戻っても今まで経済や経営の勉強をしたこともない私に社長業が務まるとも思えなくて、卒業後2年間、東京で簿記の専門学校へ通うことに。この2年間は、簿記の勉強はもちろんですが、アルバイトにも励みましたね。これから先できない、今までやったことがないことを、とにかく経験しておきたかったんです」。
内田さんが経験したアルバイトは、大手出版社の編集アシスタント、デパートガール、ファッションショーの裏方、小料理屋で皿洗い……などなど多彩。中でも編集アシスタントのアルバイトは、最終的には「社員にぜひ!」と請われるまでに。
「角川書店で編集のアルバイトをしていたんですけど、夏樹静子先生や、小川洋子先生、当時まだ駆け出しだった角田光代先生などの担当をさせてもらって(笑)。良い時代で、アルバイトなのに担当を持たせてもらえて、錚々たる作家の原稿に赤字を入れたり(笑)刺激的な仕事をさせてもらっていたんですよね」。
長崎に戻れば「タクシー会社社長」という仕事に、これから先の人生を賭けて挑まなければならない内田さんにとって、この2年間は自分の可能性を試す最後のチャンスだったのかもしれません。とは言っても、20代前半の夢多き年頃の女性が、大手出版社からの引き止めを振り切って、よくぞ長崎へ戻れたな……と思うのですが…
「うーーーーん(苦笑)。確かに、悩みました。迷いました。でも、自分があの時「やります」と言ったわけですから、それを裏切るわけにはいかなかった。ただ、帰ってきてしばらくは、ひどく落ち込むこともありましたよ。町がすぐに暗くなるし、あまりに、何もなくて(笑)。すべてが灰色に見えていました(苦笑)」。
自分が下した「社長を引き継ぐ」という決断を、裏切れなかったという内田さんの強さ。若さを理由に逃げなかった潔さ。内田さんという女性の魅力はこの強さと潔さにあるような気がします。自分の運命を恨むことなく、理由をつけて逃げることもなく、ありのままを受け止め、その時、その場所でできることに精一杯取り組む。生き方の根っこが、男前なのです。そう!内田さんは女性なのですが、ホンットにカッコいいのです!
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