「魚屋に戻った理由ですか?それはですね…大好きな魚が欲しかったからです。魚屋をやめてから、「魚が意外と高い」ことに驚いて(笑)。実家に行けば、タダでもらえますからねぇ……というのは、冗談なんですけど(笑)。もうひとつは、孫に対しては、あれだけ厳しかった父もウソのように甘くて、とても可愛がってくれたんですよね。孫を通して、少し歩み寄った部分もあったのかな。今ならもう一度手伝ってもいいかな、と思えたんです」。
家業の手伝いに復帰した松田さんですが、この時はまだあくまで「お手伝い」。松田さんが「鮮魚主婦」となったのは、今から5年前のことでした。
「父が肝臓がんを患って。初めは「体がキツい。疲れが取れない」という感じで、これといった症状はなかったんです。ただ、とりあえず心配だから健康診断に行ってみれば?という軽い感じで、病院に連れて行ったら、肝臓がんだと。手術できない場所にがんがあって、本人に知らせないまま、5ヵ月後には他界してしまいました。あれだけ厳しかった父が、亡くなる時は本当に可愛いおじいちゃんになって、「ありがとう、ありがとう」って言ってくれて。私自身救われた瞬間でした。ただ、あまりに急なことで、お店をどうするか、何も決められないままだったんですが、昔からうちで働いてくれている職人のひろちゃんと、くまちゃんと3人で話し合って。2人がこのままうちで働きたいと言ってくれたんですね。それなら私が継ぐしかないと、大好きだった「タケノ」おばあちゃんの名前を残して、三代目を引き継ぐことにしたんです。主人も「やりたいなら好きなようにすればいい」と、この時も私の意志を全面的に尊重してくれて、踏み出すきっかけになりましたね」。
1995年創業の老舗鮮魚店。松田さんは三代目を引き継ぐにあたって、「うちのお得意さんには、料亭やお寿司屋さん、ホテルもありますから、先代の頃と比べて、鮮度が落ちたとか、良い魚が減ったとか言われたくないと思いましたね。昔と変わらない、昔以上の「竹野鮮魚」にしなくては!と」。大型いけすを完備した強みを生かして県内産の魚介を中心に、バツグンの鮮度を保ったまま、お客様へ…というのも松田さんの心意気です。お刺身も、パック売りにはせず、注文が来てから捌くためとにかく新鮮!職人さんが丁寧に1本残らず骨を抜いた介護食用の切り身も「先代の頃から変わらないやり方。腕のいい職人がいるからできることです」と松田さんは胸を張ります。先代の頃からお店を支えてくれた腕の良い職人さんに仕入れや調理などは任せて、松田さんは「看板娘」「宣伝部長」としての役割を一手に引き受けました。以前は、パソコンなどの機械いじりは苦手だった松田さんが、パソコンを始め、ホームページ、ネットショップ、ブログ、Twitter、facebookなどに挑戦!「町の鮮魚店」という枠から飛び出し「諫早の鮮魚店」へ、さらに「長崎の鮮魚店」へとネットワークを広げていきました。「私のブログやTwitterを見て来店してくれる方がいて、それも驚きましたね。見てくれる人がおるとねぇ!って(笑)」。
取材中、お母さんと一緒に小さな女の子が来店しました。お母さん曰く、「うちの子はここの魚じゃないと、分かるんですよ。「コレ、ミサちゃんの魚じゃないやろ?」って(笑)」。なんとこの親子は、長崎市内からわざわざ買いに来るほどの「ミサさんの魚」のファン。Twitterで竹野鮮魚と松田さんを知り、その魅力の虜になったそうです。
「魚嫌いの子どもが増えていますけど、それは美味しい魚を食べていないからだと思うんです。本当に新鮮な魚は臭みもないし、美味しいもの。だから、子どもたちにも鮮度の高い美味しい魚を食べさせてほしいですよね」。松田さんのポリシーは至ってシンプル。「美味しいものを食べると幸せじゃないですか。だから美味しいものを発信して、みんなに幸せになってほしいんです」。
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